僕の友達には何人か九州男児がいる。
それが面白い事に、そいつらは揃いも揃って九州男児だ(当たり前か?)
まぁ見事に世渡りが下手で、口数は多いけど性格的に不器用で、沸点が低くて、頭が固くて、笑うツボは独特だ。
そしてくせの悪いのは純粋で真っ直ぐと言う・・・
ある九州男児とは何度も喧嘩したけど何故か放っておけない人柄が難儀だ。
最近、僕が気になる九州男児も大凡そんな感じで、自分と同じ物差しを周りの人間も持っているものと信じて止まず、人を信じて任せてみては何故そうなるかと自問自答の末、気づけば周りに誰もいない事になる。
純粋で真っ直ぐなだけに、下心を持って他人の思惑に寄せることをせず、いつかわかってくれる事を信じて自分の信念を貫く姿には清々しさをも感じる。
僕と同じように陰ながらエールを送る人も居れば、その真逆に彼を敵視する人も同じく多いのも想像できる。
人にはそれぞれ思い(テーマ)があって、今この場の言動は一つのシーンであって、テーマじゃない。
でも最近は背中を見てついて来てくれる人は少なくて、きちんと言葉で説明しないと理解されない。
しかも嚙み砕いて・・・
でもシャイな九州男児は、まるで2枚目俳優のような言葉で本音を部下や仲間に語るのは大の苦手で、結局「やらせてみる」事はせず、率先して自分でやり、背中を見せようとする。
そして何回かやって見せた後にやらせてみて「あれだけやって見せたのに何もわかってない」とやけ酒の肴と化す。
だけど思う。
男子たるもの自尊心がなかったら生きていけない。
人が何と言おうと、笑われようと、俺はこういうスタイルだ!それが理解されずに孤軍奮闘となっても1人になっても漕ぎ続けてやる!
生きるために風見鶏になってくるくる回る羅針盤で進むワインディングロードで何とか歩を進める小心者からすれば、1本芯の通った頑固な綱渡りの方がキラキラ輝いて見える。
和を以って自我を捨てるか、孤独でも我を通すか?
ただ、和を以って轍の上を進んでも、真理は孤独なもんだと思う。
同じ孤独なら、我を通す方が良いに決まってる。
また久々に膝を突き合わせて呑みたいと思う。
※写真はカフェアドリアーノのパスタ。スパゲッチィを食った後に皿に残ったオイリーなソースを美味しく頂ける数少ない店です。